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突っ込みについて・宮沢章夫の影響・世界の終わりとハードボイルドワンダーランド

更新日:2020年5月29日

突っ込みについて


紋切り型の書き出しで申し訳ないが、「ボケ・突っ込み」という言葉を一般市民が使い始めたのは、多分、松本人志の「遺書」が出てからだと思う。宮沢章夫さんに指摘されそうなほど権威的な文章で申し訳ないが、ま、鵜呑みにしなくていいから聞いてくれ。多分、興味深いぞ。つまらなかったらごめん。


芸人が本を出して、あれがヒットした。多分、読まない人も、「お笑い芸人にはお笑い芸人なりの哲学があるんだな」くらいは空気として感じたはずである。松本人志の遺書が何のことか分からない人は、多分、「ボケ・突っ込み」を一般市民が使うようになった、という話も何のことか分からない人だと思う。


話が脱線した。というか切り口がまずかった。話は俺の突っ込みについてだ。


私の突っ込みが下手かうまいかという話は置いといて、人間、あのときああ突っ込みゃよかったと思うことはままあるはずである。で、私はどうも、突っ込めるときと突っ込めないときの差が激しい。自分で反省してるくらいだから、これは真実だ。「私ブスだ」と言う女がブスなのと同じくらい真実だ。鏡を見ている人間が、自分をまったく主観的にしか見れない、ということはないだろう。多少は客観的であるはずだ。あんまり関係ないけど、「私って美人でしょ」という女もあまりいない。友達が減るからだろう。しかし、男受けはいいはずだ。同じ顔の女が二人並んでいたら「私はブスだから」という女より「私 美人でしょ」という女の方がいい。友達減らす覚悟で口にすると多分世界が広がると思う(一つの方向に対してのみ、だが)。


日常のギャグについて、芸人でもない人間が反省するというのはどういうことだろう。それをいうなら、多分、日本人である皆さんは、突然、「自分が嫌われているかもしれない」という思いに駆られてしまったら、相当 焦るはずだ。自分が人前に顔を出したら、それまで話していた群集が突然それまでの会話を止めるのである。そしてこっちを見る。そのあとひそひそ話が始まったらもうこれはいじめ以外の何者でもない気がするが、なんだかまた話が脱線している気がする。


突っ込みで厳しいのが、目上の人と、難しいボケである。関西人は目上の人に突っ込めるようになってやっと関東人を一員として認めてくれるそうだが、私が関東のボケ(というか冗談)が好きなので話はややこしい。別に簡単に突っ込めるボケが悪いと言ってるわけではない(しかし何を熱くなってんだ、俺は)。ただ、竹野内豊とかが、真顔で、渋い声を出して、眉間に皺を寄せて「稲中卓球部か……」と呟かれた方が私は爆笑するのである。これには突っ込めない。


私はアメリカンジョークも好きなのだが、アメリカンジョークも突っ込むのが難しいジョークである。


実際の所、そっちは突っ込みが必要ともされてないのだからいい。これからの話が本番だ。


「どう切り返していいのか分からなくてする愛想笑い」。これが怖い。ちょっと極端な例を挙げよう。


本人は笑って言うのである。「俺さ、結婚式に女に逃げられたよ」。


これはどうだろう? さすがに、あはは、馬鹿でー、などとは笑い飛ばせない。かといって、本人が笑っているのに慰めるのもどうかと思う。中年の、禿げかかった課長が言うのである。「浮気がばれて家に帰れないんですよ」。やはり本人は笑っている。「お、じゃあ、今は外泊公認ですね」などと馬鹿丸出しで浮かれてみても、本当にその場の空気が軽くなるかどうかは大いに疑問だ。「最近、早いんですよね」。下世話なお話で申し訳ないが、これも下ネタである。「うちの息子が万引きで捕まりまして」「今日の朝、車で猫、轢いちゃったよ」


ま、この辺は冗談ではないと分かるからまだいい。次の場合はどうか。


「俺の友達に宇宙人がいたんだよ」


タイミングによっては大爆笑するところだが、切り出すタイミングと本人の言い方によっては残酷な結末を迎えそうである。合掌。


宮沢章夫の影響


宮沢章夫のエッセイに、最近、多いに影響を受けている。適当にいくつか引用してもいいが、このエッセイのきっかけだって宮沢章夫なんだから、ちょっと心苦しい。文体も少し意識して似せている。




「関東極道連合参上」

たいていこういうものは壁にスプレーペンキで書かれていたりする。このことからわかるのはいったいなんだろう。「関東極道連合」がここに来たということだろうか。だとしたら、「あー、そうですか」としか言いようがないではないか。だが、「一を聞いて十を知る」者は、ただそれだけのことを知るのではない。

「これを書いた人たちは、ことによると、ばかなのではないか」

人は、「一を聞いて十を知る」のである。その意識の作用は複雑だが、複雑であればあるほど、なにか豊かさを私は感じる。

宮沢章夫氏のエッセイにおいて、キーワードの一つは「ばかなのではないか」だ。もう一つは「ちょっとどうかと思う」である。宮沢章夫氏はこの二つの言葉を使って、たいていのものを切って捨てる。そこには単純な視線、本人が言うところの「犬をみる視線」ですべてを見ているのが感じられる。


物事は深く考えるとよく分からなくなる。宮沢章夫氏もよく考えすぎてよく分からなくなっている。視点はしかし単純だ。だが、単純過ぎて誰も忘れていたような視点だ。誰もがそういうものだと思って深く考えるのをやめた事柄に、宮沢章夫は目を止める。この目の止め方は、ちょっと尋常ではない。


それにしても、この宮沢章夫の明確な立場はなんだろう。私が宮沢章夫のエッセイを読んで最初に考えたのが、どういうわけか歌手である。


宇多田ヒカル。デビュー曲の「Automatic」は空前のヒットだし、アルバムは1999年5月現在、史上最高の売上を記録している。だが、あのデビュー曲のビデオクリップの体の動かし方はなんだろう? ちょっと何をやりたいのか分からないのではないだろうか? その、中腰の体勢で口から発せられる言葉は「It's automatic」である。いよいよ訳が分からなくなってくる。宇多田ヒカルは、あの体勢で、何を伝えたかったのだろうか? ちょっと冷静に考えれば、自分が意味のないことをしていると気がつきそうなものである。もしかすると、宇多田ヒカルはばかなのではないか。


で、宮沢章夫の文体から離れるけど(今までも意固地に真似をしてたわけではないので、最後以外は私の文章だけど)、スピードも、よく考えると馬鹿なのではないかと思うのである。もっと本質的に、ダンスというものを考えないと、あの四人組も宇多田ヒカルも、その他大勢の踊る歌手達も、よく理解できないのではないかということである。一体、スピードは歌いながら踊って、何を伝えたいのだろうか? 観客、そして多くの人にダンスを見せるということに何の意味があるのだろうか? よく分からないのはジャニーズ系のアイドルも同様である。あの踊りは、何か意味があるのだろうか? そのまま歌っては、何がいけないのだろうか? そうまでして、踊りにかける練習もそれなりにあるだろし、辛かったりきつかったりもするだろうが、それは一体なんのためなのだろうか? 私の目の前で、宇多田ヒカルやスピードや TOKIO やモーニング娘が歌って踊ったとき、私は何かその踊りから感じることがあるのだろうか? そもそも、なぜ彼、彼女等は踊るのだろうか? どうにも分からない。


世界の終わりとハードボイルドワンダーランド


これは作家・村上春樹の小説のタイトルである。私は読んだこともないうちから、このタイトルだけ覚えてしまった。


覚えてしまうと不思議なもので、結構その影響から逃れられなくなる。とくに「世界の終わり」という言葉は、何か小説のタイトルを考えているときに不意に頭の中に訪れる。「タイトル、何にしよう……『世界の終わり』なんてカッコいいな」。……既にその時点でこの作家に負けている。先に言った奴の勝ちである。


印象的なタイトルといえば、バンド「フリッパーズ・ギター」の曲名は、小沢健二が考えただけに印象的なものが多い。「奈落のクイズマスター」なんて、何度タイトルにしようと思ったか分からない。もっとも曲名の場合、曲の印象抜きには考えられないから、純粋に言葉の力として考えるときはちょっと外した方がいいかもしれない。


雑誌の投書欄にあったが、タイトルでヤケクソにインパクトがあるのが鴻上尚史で「朝日のような夕日を連れて」「天使は瞳を閉じて」「電気羊はカーニバルの笛を吹く」とくるともうなんだか分からない。しかし、カッコいいのは事実だ。「カッコよさそうに聞こえる」のは、宮沢章夫に「ばかなのではないか」と言われてもだ。


こういうタイトルは不意に思いつくことが多い。「世界の中心で愛を叫んだ獣」なんて、思いついた奴の勝ちである。「嘆きの潮に帆をかけよ」「晴れた日は学校を休んで」「ハッピーマニア」。どれも、なんだかどきどきする。


自分はタイトル負けをすることがよくある。タイトルに振りまわされるのだ。昔、「ビッグ・スケール」という身も蓋もない宇宙小説の構想が浮かんだことがあるが、どうにもタイトル負けしてしまい、未だに書けないでいる。アイディアは温めないで、熱いうちに打つことも大事なのだと思い知らされた。温めることも大事だが、それをしてると次のアイディアが出なくなる。アイディアを出しまくっていると、以外と次から次にアイディアが出てくるのである。「ランダム・アクセス」「『そ』彼は言った。『そんな馬鹿な』」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。すぐにそこに戻るなあ。


長いタイトルに心惹かれて、次から次へと考えたこともある。思考のゴミを見せるようで申し訳ないが、例えば「ドアをノックしても返事はなかった」とか、なんだか陳腐なものだ。陳腐といえばやっぱりホラーで、「死霊のはらわた」って一体誰が考えたのか、調べれば分かるけど、なんだか調べるのもバカバカしいような偉業だ。B級映画にはこの手のが多く、「地獄のバトルラン~決死の捜査線大突破~」とか「地獄の女囚コマンド」など、テレビ朝日の日曜洋画劇場に多い。中島らものエッセイにあった「宇宙から来たツタンカーメン」などといったタイトルも、命名者が「これはB級のゴミ映画ですよ」と分かりやすく宣伝してくれているような気がする。そういえば「北京原人」も正式には「北京原人~ Who are you ~」でちょっと勘のいい人ならこれはやばいと気がつきそうである。しかし裏切られたのもあって、駄目映画だと思っていた「スピーシーズ」は結構な傑作であった。これは嬉しい裏切りである。


タイトルのジンクスにも結構あって、「2文字だけのタイトルはコケる」というのがある。1文字や3文字はいい。製作者の気合いの入り方がいい感じだからだ。それが2文字になるとどうもよくない。気合いが途中で抜けたような感じになる。


話が収拾つかなくなってきた。この辺で適当に切り上げよう。おしまい。



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