# ここではないどこかへ・どこでもないここへ・再び少年は旅に出る
* DATE=1999-01-01T00:00:00+09:00
## ここではないどこかへ
逃避願望っていうんですか?
「どこに行きたいのかは分からないけど、もうここにはいたくない」
ブランキージェットシティの逃避歌だ。
まあ、どこか遠くへ行きたいという感情は結構誰にでもあるんじゃないかと思う。
やっぱ南がいいよ。南の島にいこう。そこでのんびり暮らすんだい。
やはりどこか遠くへ行きたいと思うのだ。
話は変わる。
男の読者の共感を得るために簡単に取られる手法は、主人公を冴えない奴にすることだという。いい男には感情移入されない。
逆に、女の読者の共感を得るには、主人公は美人でないといけないそうだ。
私がいろいろ考えた結論の一つとして、「どうしようもないやつはどうにもならない」という、「なんでそんな結論を出すのに考えなくちゃいけなかったの?」という感じのものがある。
冴えない主人公が、努力して這い上がっていく成長物語は読む者に勇気を与える。それは悪いことじゃない。自分も何かやってやろうと思って、奮起することだってある。
しかし、そうやって成り上がっていくのもまた、一つの性質であり、冴えない奴はそこで成り上がりもしない。
「どうにもならない奴はどうにもならない」という所以だ。どうにかなる奴なら、それは本当にどうにもならないというタイプだ。もっと言えば、「俺だっていつかやってやる」と言ってる奴が本当にどうにもならないのだろう。
だが、そういう人間は、物語の中で共感を得やすい。だが、物語の主人公がやがて成功を収め、読者を超えて大きくなっていくのは、結局のところ、冴えない奴を後ろに置き去りにしてどこかに行ってしまうのだ。
物語の登場人物さえ、どこか遠くに行ってしまう。
「どこか遠くに行きたいな」
うーん。こういうセリフに必要以上にムキになって説教を垂れるおっさんがいるが、(若者にもいるけど、まあ)経験から言うと、ムキになって反論するときは、どちらかというと「自分もどこかに行きたいのに諦めようとしている」感じがする。
けど、もうちょっとどうでもいい話で、冒険願望とか、日常がつまらないっちゅう思いが、逃避願望に走らせるわけで、「自分探し」みたいなもんで、なんだかなに言いたいか分からんな。しかも説教くさいし。やめやめ。
## どこでもないここへ
青春小説や、漫画、映画でも、逃避するカップルは結局どこにも行けないのがお約束だ。
あんま関係ないけど、スタジオジブリの「耳をすませば」が結構好きで、あの終わり方はなんだが心憎くて、一人でそのハッピーエンドにニヤニヤ笑ってしまった覚えがある。
話は戻って、とはいえ、これについては漫画家のあろひろしが「とっても少年探検隊2」のあとがきで次のように述べている。
「どうやら幼いながらも、女の子であり男の子であることを彼らは意識し出したようです。未知の謎と危険に立ち向かうことと同じくらいに、隣にいる人のことが気になる年頃になりつつあるのです。」
……まあ、既に小さい頃に何を考えていたかについて覚えていない人もいるかもしれないけど、小さい頃の夢はやっぱり冒険にあり、未知の土地と未知の人々に思いを馳せ、夢を膨らませていたはずである。どこか遠くに行き、知らない人と知らない文化に触れるのは、人類の意義の一つであり、人生の目的のひとつなのではないかと思う。
(「どうでもいい話」がなんか哲学的思想の与太話になっていく傾向が続いているけど、一応、ここが一区切りになる予定です)
そして、遠くに思いを馳せ、空を見るように地平線を見ている時期から、隣の人間の顔を、同じ目で見るようになる時期が訪れるわけである。
これが一つの健全な思春期で、「どこでもないここへ」やってくるきっかけになるのである。
恋愛話に華を咲かせるなら、まあ、男の子というのは大抵、小さい頃はどこかに行こうとしていて、隣の女の子に行こうとしているような奴は村八分にされてしかるべき存在であると思う。
映画監督の岩井俊二が「トラッシュバスケットシアター」の中、「打ち上げ花火、横から見るか、下から見るか」(下から、横からの順番だっけ?)撮影中、キャストの小学生達に「実際には女の子と花火に行くか?」と聞くシーンがある。小学生の子供達は、「女なんかと花火なんかいかねえよ」と答えたそうである。
話はずれるが、最近は小学生でも彼女を作ったり、男女問わず恋愛年齢が下がってきているそうだが(けど、こういうのって、自分が本当に小さい頃から言われてきたことなので、あまり信用してはいけない。年寄りが嘆くように本当に低年齢化していたら、とっくに幼稚園児が舌を入れてキスするような時代になっているはずだ)まあ、私が小さい頃も、そういうやたらと女のケツを追い回している小学生というのが二人か三人は必ずいたので、まあ、つまり何が言いたいかというと、遠くの出来事が気にならない奴が、恋愛を始めるのであろう。
「好きな人となら同じ場所にずっといるのも悪くないな。」
だけどまあ、それとは別に、世の中というのはどこに行ってもそれほど居心地のいい場所はなく、いい場所を見つけても、そういうものは往々にしてすぐに形を変えてしまうものである。
## 再び少年は旅に出る
年をとって自分の居場所を見つけるまではそういう放浪が続くのかもしれないけど、僕の父や母を見ても、だとするとこの世の中はそれほど愉快とも言えないものだ。
人はどこにも行けないのだとすると、自由というのは単なる幻想や、頭の中にだけ存在できる、単なる絵に描いた餅なのだろうか?
よく、自由を履き違えないで、とか、自由とは何をやってもいいということではありません、といった言葉を聞くが、自分で責任をとらなくてはならない自由というのは、どっちかというと義務に近くて、確かに正しいのだけど、そんな自由は楽しそうには聞こえない。
どうせ自由ならば、「人を殺す自由」だってそこに存在していいはずだ。盗む自由、騙す自由。思ったことを思ったようにする自由こそ、やはり自由という名にピタリとはまる気がする。
ちょっと話はズレるけど、有名な社会優性遺伝の話で、どういう人間が生き残るかという話がある。
ちょっと話を戻そう。もう一つ考えてみると、結構この世の中は自由だ。それも、「何をしてもいい」という意味でも自由だ。物を壊そうと思ったとき、別に人は自由にそれを壊すことができるし、多分、壊せるだろう。そして、復讐をする自由というのもある。法律では仕返しも違反らしいけど、まあ、それは置いといても復讐する自由はある。もちろん、犯罪を犯したら捕まるけど、捕まるというのは不自由とは違う。なぜなら、警察から逃げる自由も、証拠を隠す自由もあるからである(なんか問題発言だな。多分いないと思うけど、ここだけ読んで変な行動を起こすなんてことをしないように)。
さて、生き残るタイプというのはどういうタイプか?
まず、善人は生き残れない。これは当たり前。
次に悪人。これも生き残れない。ただし、この場合の悪人というのは、常に悪事を働く純粋な悪人のことである。
さて、生き残るタイプだ。私もあなたもこれに当てはまる。
「相手によって善と悪を使い分けるタイプ」
もっと言うと「相手が悪の場合は悪になり、善の場合は善になる」というタイプが社会の中では生き残れるのである。
これを聞いてどう思うだろうか?
私はこれを聞いたとき、「生き延びるタイプって、人間的にはあんまり魅力がないなぁ」と思った。例えば殺人犯には死刑も辞さない。自分に危害を与える人間にはこっちも危害を加える。けど、自分に優しくしてくれる人間に対してはこっちも優しくする。
……。どこに人間的魅力があるというのだ? この、生き延びるタイプというのは、本当に、「生き延びるタイプ」以外の何者でもなく、人間としての理想像とかでもなく、善とか悪といった白黒のはっきりついた判断をしているわけではない。ただ、生き延びているだけである。実に要領よく。
反対の話をしよう。相手が自分に危害を加えても、自分は相手に危害を加えない。報復しない。つまり、まあ、解釈によっていくらでも変わってくるけど、善だ。右の頬を打たれて左の頬を出すタイプだ。
「魅力的だ」
相手が親切をしてくれる。優しくしてくれる。だがしかし、その人間は裏切り、利用しつづける。解釈にもよるけど、悪だ。相手の善意をまったく無視するタイプだ。
「魅力的だ」
さて、自分のやりたいことをやりたいようにやる自由な人間が、本当に欲望のままに、他人を傷つけたりしたら、それは「自由」で「魅力的」だが、「生き延びるタイプ」ではない。警察に捕まるとか、法律的にどう、という問題ではなく、世の中にたくさんいる「生き延びるタイプ」の中からはじかれ、抹殺されてしまうのだ。
「いや、私は私の中で善と悪を判断し、行動している」
そんなことを言ってみても、私はそのセリフは充分怪しいと思う。結局、私もそうだけど、「自分に危害を加えようとする存在に対しては何をしてもいい」と考えてしまうのではないだろうか?
しかし、実はここまでにちょっと前提となる議論を省略していた。
「生き延びることは善か、悪か」
多くの解釈によるけど、生きることは罪深い、とか、生きることは何よりも素晴らしい、とか、まあ、その辺まで問題は広がってくるのである。
え、自分はどうなのかって?
私は自由を望みます。そして、生き延びたいと思います。自由であることで生き延びることができないとしたら、私は生き延びることを選ぶでしょう。そして、自由を、芸術の、想像の、物語の中に探し出したいと思います。現実の世界で生きていくためには自由に生きられないのだから、生きること以外の無駄な部分が、人生には必ず必要になると思います。だけど、その自由さえ許されず、ただ生きることだけを望むような世界が来たら、そんな場所にはいたくないと思います。そんな命に素晴らしさなど私は感じないし、そんな命を捨てることに躊躇することはないでしょう。
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