# 女性不信とか聖母信仰とか・小説家あるいは漫画家志望という人種・誰もが孤独を抱えているのか?
* DATE=1999-01-01T00:00:00+09:00
## 女性不信とか聖母信仰とか
### 女性不信
テレビのバラエティで恋愛が結構たくさん取り上げられる。その中に、「女の本音」番組がある。「恋のから騒ぎ」なんかがそうだが、もっと大きな範疇で、女の過激な発言、をネタにしたものに注目したい。
女の本音はやっぱり男にとっては聞きたいことの一つである。
出演者も、製作側も、過激でないとウケないから、どうしても過激になっていくのだろうし、それが本音かというとそんなことは本人にも分からないだろう。それに、そういうときはつい人を傷つけるようなことを言ってみてしまったりするものだ。
だが、結局、あんまりそういう番組ばっかり見ていると、女性全般が信用できなくなる。これはひっくり返して、男が何人も集まって、今まで付き合ってきた中で最低の女、というので空騒ぎするところを想像してもらえれば分かりやすい。
私が知る限り、あまり男というのは今まで付き合ってきた女を話題にすることがない。盛り上がらないし、他人のそういう話を聞いても仕方ないからである。
話はずれるが、クラスや、ホントに少数の知人の中に、男のくせに聞いてもいないのに彼女の話や今まで付き合ってきた女の話をする奴がいた(私の小説の中でもたまに登場するが……)。私が知る限り、あまりこの手の人間には友達がいないような気がする。そういう人間同士は仲がいいと言うが、多分、仲がいいといってもちょっと私の考えている「仲がいい」とは違うのではないかと思う。
女の人は他人の恋愛体験を聞くのが楽しいのだろうか? それは分からない。楽しい人もいれば楽しくない人もいるだろう。けど、男同士が女の話をするというのは番組として成り立たないくらい歓迎されない(楽しまれない)のに比べれば、少なくとも「少し事情が違うのではないか?」くらいは思う。
ちょっと間違えた。番組とか、コイバナについてじゃなくて、私は「本音がもたらす女性不信」について書こうと思っていたのだった。
ことは人間の欲望の本質にかかわる。そしてコミュニケーションと誤解についてだ。
たとえば、ハーレムの中で暮らしたいかと聞かれれば、男はどう答えるのだろうか? 浮気したいかと聞かれればどう答えるのだろうか?
「本音」の本質がちょっと難しいと思う。なぜなら、人間というのは自分のことなど少しも分からないからだ。少しは分かるかもしれないが、「本音」といった部分にはちょっと手が届かない。相手に合わせて本音を変えるし、自分が本当のことを言っているつもりでも相手には伝わらないかかもしれない。具体的に言うと、私は、自分が、ハーレムの中で暮らしたいのか、よく分からない。
で、けど、聞かれれば、やっぱり、「よく分からない」と答えるよりは、「やっぱハーレムは男の夢っスね」と答えた方が盛り上がるし、大抵の場合、質問者はそういう回答を期待して、「ハーレムで暮らしたいか?」と聞いていると思うのである。
そこに好きな女のコがいたりすると、「いや、別にハーレムなんて……」なんて答えたりする経験を誰でも持っているのではないだろうか?
さて、逆に考えてみて、自分の好きな女のコが、「ハーレムで暮らしたいか?」(一妻多夫・多夫一妻というのもなんかちょっと想像したくないけど、そこをあえて)と聞かれて、「やっぱりいい男をたくさん回りにはべらしたいわ」と答えていたら、やっぱり傷つくと思うのである。まあ、人間の欲望にも人それぞれだから、男女ともに、ハーレム願望がある奴もない奴もいると思う。で、まあ、僕はハーレム願望は想像できるので、そういう願望は結構、誰でも持っていると思うのである。もちろん、自分の欲望を相手に重ねているだけという考え方もできるが、そういうのとは別に、やっぱり女にもそういう願望があるんだろうなと思う。
なんだか結論の持っていき方が分からなくなったので、この辺でやめる。
### 聖母信仰
生島次郎の影響については後で述べるが、ここでは男の女性像として生島次郎の言葉を最初に借りたい。
「私にとって女性像とはまったくの二つに分かれてしまった。すなわち、娼婦と聖母である」
これは中島らものエッセイにも顔を出す。大槻ケンヂのエッセイにも出てくる記述だ。エッセイとしてはあと、原田宗典や椎名誠も読むんだけど、(女性のエッセイとしては、安彦麻理絵を読む。内田春菊やさくらももこのエッセイも読んだことがあるが、さくらももこは文庫にならないのと、内田春菊は周りの悪口しか言っていないのであまり読んでいない)そっちには記述がない。別に誰でも持っている感情ではないようだ。
簡単にあらましをいうと、女心がよく分からないというか、自意識過剰で女性とうまく話せなかったりすると、「女性像」というのが正確に形成されずに、「娼婦」と「聖母」に分離していくのである。
分離については詳しい説明が要らないと思う。恋愛感情と性欲が分離してしまうのである。
「セックスはセックス。愛は愛」
「やりたいけど好きじゃない」とか「好きだけどやりたくない」とか、逆に、「好きで好きで、もうめちゃくちゃにして」というのも結構、ばらばらで分離した感情のような気がする。
人間って大変な生き物だと思う。これは結局、子供の頃には性欲がなく、恋愛感情だけがあったりするから、その辺の気持ちを引きずってしまうのではないかと思う。
人間は本能で子供を作れるのか、という命題がある。つまり、人間は生殖行為も学習する事柄なのではないかという話だ。これはちょっと微妙だと思う。まあ、大抵の人は、異性への興味の目覚めとともに学習を始めるから、どうしたってそういう知識を仕入れてしまうのだけど、そういう情報源がどこにもなくても、人間という動物は、発情を始めて正しい生殖行為を本能から掴み取るのか、という命題だ。
結構僕は、本能としても人間も生殖行為を知っていると思う。大抵の人が伝聞や、その他のメディアから学習していくとしてもだ。
まあ、そんな話は置いといて、女をみんな娼婦として、みんなやりたがりのメス豚だと考えるのも問題があるが、女を、みんな、あるいは好きなコとかそういう雰囲気を持った女の人を、まるで母親のように崇めるのもやっぱり問題があるなと思うのである。
もっともこういうのは大抵、不本意に打ち砕かれる。そして僕は意外とそういう物語が好きだ。まとめて紹介しようと思っていたのだが、うまい例として、原田宗典と沢田としきの「黄色いドゥカと彼女の手」という短編が見つかったから、それをちょっと紹介しよう。
と、思ったけど、こういう物語は好きなだけに、うまく要約することができない。小さな積み重ねで読者と主人公を一つの感情に導いていくというやり方は、好きな手法の一つだ。
好きな女がいる。気が合う。付き合う。そしてある日(不意にか、予感があるかは物語によって違う)、本当は始めから彼女が自分に心なんて開いていなかったのだと気がつく。そういう物語だ。
聖母信仰の話だったけど、話がずれたついでにちょっと先に進もう。
そしてこの話はおしまいだ。ところで私にはそれほど、性欲と恋愛感情にはずれがないと思う。好きでない女とはちょっとできないし、好きな女とはしたくなると思う。ま、よく分からんけど。
## 小説家あるいは漫画家志望という人種
最低である。とか、そういう結論を期待しているかもしれない。まあ、どうでもいい話なので、どのような結論に持っていくかはちょっと気分次第だ。
どこかに書いたかもしれないけど、いつも思うのが、アピールできない辛さである。
バンドをやった方が女にモテる。それは確実だ。
それでもそういう志望をする人というのはよっぽど好きなんだなと思う。努力の結果が皆の目に触れた頃には、作者は次の文章を考えているというのがその理屈であると思う。さらにいうと、まあ、大抵の人は書いてる途中の姿を人に見られるのは嫌だと思う。
それは置いといても、この文章のきっかけとしては、沙村広明という漫画家の文章がきっかけで、まあ、ようするに、みんなが就職活動しているときに、「自分は漫画家希望だし」と思って他人事のように見ていたそうである。
「俺には夢がある」
……どうも作家とか漫画家というのは、夢というには違う気がする。なぜか?
「作家というのは物語の操り人形にすぎない」
たしか夢枕獏の「上弦の月を食べる獅子」のあとがきにあったと思う。私は夢枕獏の文体がどうにも馴染めず、本としては何も語ることができないが(どうも、読んでいる方が、情景をイメージできない文章だと思う)、あとがきというか、小説家としてのスタンスにちょっと考えさせられるものがある。
すなわち、「アイディアとは天から無作為に振ってくる、人の意思ではどうにもできないものである。そして、アイディアを天から授かった人間は、アイディアに振りまわされ、その一生を狂わされる」というものだ。
この考え方は、その反対側にある、「その人個人が持つ独創的アイディア」と真っ向から対立していると思う。つまり、絶望的な言い方をすれば、「俺は天才だ」型の作家は、自分の力でアイディアを作り出したと思っているが、たまたまその人が思いついただけで、別に誰が思いついてもよかったんじゃないか?と言えなくもないのだ。
「普通の人が、ある日突然、すごいアイディアを思いつく」
「すごいアイディアを持った人は天才だ」
この二つの、微妙な考え方のズレ。
あるアイディアを思いついた人は、そのアイディアを形にできるのが自分しかいないことを分かっている。それが悲劇だ。思いついた人は、そのアイディア、発想を形にしたいと思う。それが形になれば素晴らしいから、形にせずにはいられないのだ。そしてそれができるのは自分だけなのである。
「天からの授かり物であるアイディア」というのは「天才」とか「才能」とかと紙一重だ。すなわち、努力ではどうしようもない次元というものを、あなたが認めるか認めないかということだ。
才能を語らせれば「松本大洋」だ。この人の漫画にはほとんど必ず天才、あるいは才能、が出てくる。
松本大洋のスタンスでは、「才能」は人格と別のものと考えている。そして、別のものであるが、人格が才能に振りまわされてしまう。ここから先は松本大洋の漫画を見て欲しいと思う。ボクシングの才能はあったが、それ以外は何も持っていなかった男の物語など、私は読んでいて才能というものを考えてしまった。
これは本当に考え方の問題だ。それに、やっぱりどうでもいい話だ。
それでも少し考えてみよう。人には得意なことがある。スポーツや勉強といったありがちなものから、漫画、小説、イラスト、犯罪から拷問、尋問、弁舌や人にものを教えること、ナンパ、セックス、詐欺やサバイバル。さて、これと人格は分離したものか、それとも人格にくっついているものか。たとえばラグビーの才能があったとする。生まれつき体が大きく、力も強い。とっさの判断力もある。動きも機敏だ。これがまあ、才能。多少、訓練で伸ばさなくてはならないが(それは才能を持った人間も、結局一人ではないから、その中でさらに一番にならなくてはいけないからだ)、とにかく、一流のラグビー選手になる素質は充分にあったとする。
さて、その人間が、内気だったり、弱気だったり、あるいは意気地がなかったり、天邪鬼だったり、すぐにカッとなったり、気が短かったり、のんびり屋だったり、理屈っぽかったり、わけが分からなかったり、やたらと早口だったり、いざというとき頼りにならなかったり、物事を仕切りたがる奴だったりした場合、どうだろう? どうだろうってこともないか。ようするに、そういう性格は、本人のラグビーの才能と、まったく一緒に同居できる性質ではないだろうか?
で、その才能が、その人の性質に与える影響というのは計り知れない。なぜなら、その人にはラグビーの才能があり、逆にいえば、ラグビーをしないと他人に認められないからである。その人は、その性格にかかわらず、人に認められるために、ラグビーをするかしないかの選択を迫られるのだ。
小説家希望や漫画家希望は、夢として人に語るになんだか注目されないと思う。なぜなら、応援されてもされなくても、天から降ってきたアイディアに振り回されて、それを形にしようと駆り立てられるからである。
## 誰もが孤独を抱えているのか?
確か、中島らもの「明るい悩み相談室」に載っていた相談だ。
「25歳のOLです。彼氏いない歴2年です。最近、あんまり寂しいので、森遥子の小説のようにホテルのバーで男でも引っ掛けようかと思ったりしてしまいます。どうすればいいですか?」
この相談室に持ちかけられる相談は、相談する方も冗談を分かっているので、間に受けてホテルのバーにねーちゃんを引っ掛けに行ってはいけない。
まあ、それはそれとして。
「殺し屋1(イチ)」での、中国人のヒモのセリフ。
「詐欺と違うよ。女、寂しい生き物ね。私、その寂しさ埋めてやって、それでお金もらってるね。いいことね」
まあ、ぶっちぎりで言ってしまうが、男が「寂しい」などとわめいても誰も同情してくれない。ブスが「寂しい」といっても、「道の隅を歩け!」と言われるだけだ。
いつもいつも思うのだが、寂しいという感情は、確かに子供の頃には感じなかった感情の一つだと思う。
私が寂しさを実感したのは、中学1年の夏休み。友達もいなくて、時間だけがあったときだ。私はこのときに初めて思った。
「ああ、これが寂しいという奴か」
で、この話の第一段階として、「誰もが孤独を抱えているのか?」という疑問に答えを得なくてはならない。
おそらく、寂しいと思ったことがあるというなら、全員がそう思ったことがあるはずである。
問題は、孤独だ。
「生きていることが寂しい。生まれてきたことが寂しい」
「誰といても一人きりであるような感覚」
誰もが孤独を……となると、これはたまに寂しいとかそういうレベルじゃなくて、意識の底に常にあるかどうかという問題だ。
「結局人間は一人きりだ」
底の知れない孤独感にとらわれると、それは意識の底にこびりつく。多分、それがなくなることはないだろう。それは、つまり、「人は死ぬ」という意識につながる。
人なら一度は死について考え、ということは、孤独感は多かれ少なかれ人は持っているのではないだろうか? もちろん、以前にも話した通り、真実は当たり前のことなので、改めて誰かが口にするようなことではないのかもしれない。どうでもいいのだ。
まあ、ちょっと話がズレるけど、これは意識の話で、例えばそういう寂しさを感じていたとしても、それが孤独感だと、言葉に直せない人はいるだろう。それに、ブラジルに行くとなんだかわけの分からない明るさに打ちのめされるらしい。孤独感というのも日本独特の意識なのかもしれないのだ。なんたって一番寂しがってるのは演歌の主人公だからね。
では、話を進めよう。
孤独を抱えた二人が慰めあう姿がどういう風に目に映るか。あるいはそういうのは恥ずかしいのか。みっともないのか。寂しさは我慢しなくてはいけないのか。そういう話だ。
うーん。なんか、嫌なジャンルに手を出しちゃったなぁ。
まあ、ちょっと恋愛の話になっちゃうけど、寂しい男と女の、なんか、その場しのぎの恋というのは、端で見ていて気分のいいものではない。けど、まあ、これは大人の意見だけど、二人がその時、その時だけでも、お互いを必要としているわけなんだから、どうこう言う資格はないのだろう。
ぶっちゃけた話、自分が寂しいのを我慢しているのに、我慢できずに安直な道に走った二人に嫌味の一つも言いたくなるのは心情だ。その場しのぎの傷の舐め合いは、周りの同情を得ることはないと覚悟したほうがいいと思う。
まあ、寂しさがあるからこそ、幸福感があるんだけどね。けど、本当はずっとハッピーで、自分が幸せであるとか気がつかないくらい日常が波乱万丈だといいんだけどね。
なんだかどうでもいいなぁ。勝手にやってくれ。
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