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物語の出来事と主人公・物語のスケール・ノンフィクション演劇


物語の出来事と主人公


物語の出来事


小説なんかを書いてると突然おかしなことを思うものである。


小説にしろ、普通の生活にしろ、基準になるのは平凡な、日常生活である。物語というのはそこに非日常(この言葉も使い古された感があるけど)が入ってきて、初めて動き出すのである。これを「出来事」と呼んでいい。


出来事のランクはどうでもいい。戦争が起ころうと宇宙人が攻めてこようと、一億円拾おうと百万円拾おうと、それが五百円であっても出来事には違いない。しかし、「何も起こらない」。これは駄目だ。どうにも駄目だ。普段の生活のほとんどを占める「何も起こらない」という現象。こればっかりは料理のしようがない。まったく駄目だ。使いようがない。


しかし、へそ曲がりの僕は考えるのである。「何も起こらない日常は本当に小説にならないのか」と。


中学の頃はそういうくだらないことにエネルギーを使いがちだったので(誰だってあるだろう?)、その頃の小説はなんだかやけに描写に凝っている(作家にもなってない自分がこんなこと書くのはまったくちゃんちゃらおかしいのかもしれないが……けど、なんとなく自分は作家になれるような気がするので特に気にせずこのまま行きます。はい)。とにかくその頃のくせが抜けなくて、下手すると無意識のうちのそういう描写をしたりする。どうでもいい日常の「いつもの動作」をとにかく綿密に書きこむのである。


さて、しかしそれでも出来事は必要だ。こればっかりは仕方ない。何も起こらないものを読みたいと思うか? その頃の自分は読みたいと自分で思っていたから書いたんだけど、そういうことじゃないと思う。


なんだか前置きが長くなった。つまり最初に言いたいのはこういうことだ。


「いきなり一億円拾うのはおかしくないか?」


これが実は「五百円」でも、言っている意味はまったく変わらない。つまり書き出しのことである。


最初の一文に「五百円拾った」と書いてあったらどう思うだろう? 私など、その主人公が五百円を拾う前に何をしていたのかが気になる。その、突然降って湧いた「五百円拾う」という出来事の前には、作者にとっては省略してもいい彼(彼女)の人生があったのである。省略されたのである。例えばこれがあなたの自伝だとしたらどうだろう? 「彼は工藤久美子と斎藤幹介の間の長男として、1960年に生まれ……」と始まる所が、いきなり「朝、二十歳の彼は駅のホームで五百円を拾った」から切り出されているのである。これは重大な問題ではないだろうか?


これが宇宙人の本で、「五百円玉だと思ったのは小型UFOだった」と続くならまだいい。拾った彼の人生を省略することを許そう。


だがしかし、大抵は五百円拾うというイベントが、さらに広がるということもない。もし、五百円拾っただけだというなら、もしかするとそれもごく些細な日常なのかもしれない。


「彼は二十歳のときに駅のホームで五百円を拾ったが、そのあとも特に何も起こらなかった」


なんだこの小説は。「前略・中略・後略」みたいなぶった切り方だ。


さて、人生は非情だ。物語としてはここで終わらせるわけにはいかないだろう。主人公は二十歳で駅のホームなんだから大学生か社会人かといったところだ。ここでは専門学校生だということにしよう。昼休みに、かわいい女のコがお金を忘れてきちゃったという。なんだかもうここで作者の作為的なものを感じるが、どうして主人公が五百円を拾ったときに、かわいい女のコがお金を忘れてきてて、しかも主人公に最初にそれを相談するのだ、などと考えてはいけない。ここで運命的なものを感じなくてはいけない。日常にもたまにこういう偶然が重なるときがないとも限らないではないか。


しかし、人生は非情だ。お金を借りたかわいいあのコはコンビニでパンでも買って食うのだろう。「ありがとう」と彼女は言って、それで話は終わりである。その先に何が起こるということは、そうあるものではない。日常ではここまでの偶然を世界に感謝すべきである。このせいで三億円の宝くじを逃しているのかもしれないのだ。


しかし、フィクションは非情だ。フィクションの世界では、これで終わっては読者に火をつけられる。なんだかもう勝手にしてくれというところだが、お金を返してもらったときに、いきなりひったくりにあって彼女のバッグが盗まれてしまう。中にはどういうわけか今月の生活費十万円が入っている。作者の作為を感じる暇もなく、日常では素早く追いかけるなどほとんど無理だろうが、主人公は瞬間的に「待てー」と叫んで走り出すのである。


追いかけると相手は逃げる。通行人を弾き飛ばして歩道を走るが、後ろを見て主人公をチラッと確認したときに、正面にいた女と正面衝突。ひったくりはバッグを落としたまま逃げていく。バッグを取り返した主人公はそれを彼女に返すが、さっきの正面衝突でバッグが入れ替わっていた!


ちなみにこの手の「そんな馬鹿なという偶然が重なる小説」というのはちょっとしたジャンルを作っている。一人の作家がそれだけ書き続けているということは少ないが、大抵の人が一度は手を出すジャンルなのである。ちなみにそれを作るコツとしてはスケールを大きくしないことである。入れ替わったバッグに国家機密が入っていたというよりも、専門学校の講師とそのバッグの持ち主とのツーショットの写真が入っていた方が面白いだろう。しかしその講師は結婚しているはずだった。二つのバッグを交換しないといけないから、講師と連絡をとる。その講師も専門学校の金を使いこんでいるよりも、女子高生の万引きの証拠写真をネタにゆすっていた方が通俗的で物語は広がる。その女子高生がかわいい彼女の妹だったら話はつながるし、五百円の落とし主につなげてもおもしろい。フィクションだったらそのくらいやりたいものである。


しかし、周りに広がる日常は、それでもなお、特に何も起こらない。このご時世なら不倫の一つや、援助交際や人妻との乱交ぐらいあってもよさそうだが、それもない。セックスに限らなくても、ヤクザや警察や暴力団とのトラブルなど、あるものではない。出来事がないから現実は物語にならない。


で、どういうことかというと、小説の一行目で「何かを起こす」ことに戸惑いを感じたりする。ハッピーエンドも胡散臭い、ドラマも非現実的で、実際には起こりそうもないので馬鹿らしい。思わず主人公を、殺してしまったりする。恋愛物では誰もが誰ともくっつかなかったり、復讐バイオレンスでは失敗して敵に殺されてしまう。


どこを選択するか。物語の「リアリティ」をどこに置くか。それは結構問題だと思う。


「こんなにうまくいくわけないな」と考えた時点で、あなたは現実に侵されている。小説は「うまくいってないときの出来事は省略して、うまくいったときの話だけを、うまくいき始めたところから話し始めている」だけなのだ。映画の中ではレンタルビデオの店員も、美容室のねーちゃんも、あまつさえ占い師でも美人だったりするけど、そういうことがないとも限らないではないか!


実際にはそういうことはない。


物語の主人公


同様に出来事の中の「主人公」にも疑問を感じる。


「どうしてこいつの周りでだけイベントが起こるんだ?」


そう思う方が正常な感覚である。日常では、自分以外の人も何かを考えて行動して、しかも全員が自分の行動をドラマチックに感じているのだから、「主人公はいない」か「主人公は自分」のどちらかしかない。こういうのは世の中の捉え方なので、どっちが正しい、というものではない。「主人公はキリスト」などという人もいるだろうが、まあ、それでも主人公が{傍点丸}いる{/傍点丸}ことには変わりがないので特に問題はない。


なんにせよ物語の主人公というのは不自然なのだ。他人として考えたとき主人公という他人は、自分にとってなんだか羨ましくて腹の立つ存在以外でしかない。


で、自分が主人公として考えたとき、物語の主人公を見ても腹の立たない唯一の方法は感情移入である。性格も生い立ちも違っても、物語の主人公を自分だと考えれば、それなりに面白いし、本当の自分の人生より豊かな人生を体験できる。大抵の物語の主人公が経験することは、自分には経験がない物だ。私は今まで、私立探偵が探偵小説を読んでいるという話を聞いたことがない。社長が、どこかの社長が書いたビジネス本を読んでいるという話も聞いたことがない。読んだとしても付き合いか冷やかしだろう。


作家が作家を主人公にするというのはよくある。ま、作者の立場から物語を考えるとまた特殊なので、その話はここでは置いておきましょう。


物語のスケール


ここで話そうというのは、「物語のスケールについて」ではなくて「私の好きな物語のスケール」である。


僕はどうもスケールの小さな話を考えるのが好きなようで(もちろん、自由な発想で思うままに考えるのも好きだ)、普通の人の普通の動作を書いていくのが好きである。背景は、人間の世界なのだからもちろん大きいに決まっている。それよりもスターウォーズで注目されない、細かい人々の細かい暮らしとか、主人公にあっという間に殺される、アクション映画の雑魚の、今までの人生など、本当はよく考えると同情を禁じえない人々、しかし、本人はそのことに気づかずに一生懸命生きている人々の、小さなスケールの話が好きだ。


視点を変えるというのは誰でもやっていることだと思うけど、映画「デスペラード」で、アントニオ・バンデラスにバコバコ撃たれるアホ集団に、それまでの人生があったのかというと、ちょっとよく分からない。親が泣くと思う。「ランボー」もそうだ。あのベトナム兵達はちょっとかわいそうだ。いや、戦争映画だから仕方ないのか。だとしたら、「ベルセルク」に出てくる雑兵、傭兵達はどうだろう? 彼らがどのような家庭で生まれ、どのように育ち、それはともかく置いといて、ガッツにいきなりぶった切られるというのは、それだけで一本の小説になりそうである。なんといっても一撃で死んじゃうのである。これで恋人がいたりしたらやりきれない。主人公になれなかった人の、悲劇というか、せめて恋人も家族もいない、天涯孤独の奴であって欲しいものだ。


そういうスケールがいい。大きい、波乱万丈の影にある、平凡な物事。平凡な物事の裏にある壮大さが、なんだかそれを正面から描くより大きく感じる。誰だって、主人公になりうるのだ。


ちょっと話はズレるけど、想像を超えたスケールはやっぱり想像を超えているわけで、そこに人間の限界があるとしたら、ちょっと寂しい。


とはいえ、もちろん、まったく自分が中心になって事件を起こす奴とか、巻き込まれる奴、まったく関係ない奴、といった人間像は、とても面白い。ただ、いつも思うのが、どうしても一人の人間が書いていると、登場人物は大体、似たような人間(つまり登場人物がすべて作者の分身)になってくるのが悲しい。私がまったく想像で、自分以外の人間を作るときは、ひとつの限界を超えて狂気に踏み入れたときではないかと思う。


ノンフィクション演劇


小説はどうしてもフィクションである。作り物である。ノンフィクションでもフィクションである。


「わけの分からないことを言うな!」


つまり、文章を書く人がそれの構成を考えているし、すべての情報ではなくて、作者が取捨選択しているものが載っている。たとえノンフィクションでも、その日のメシに何を食ったかを書いている本は少ない。それは正しい。意味のない情報は、それが真実でも載せるべきではないし、載せていいのは学術書とか民俗学の類である。


起こったことは真実だろうが、すべてではない。本当のことは常に「当たり前」で、人を、わくわくさせるよりも憂鬱にさせるものだというのが、私の持論である。


「真実」「本当のこと」とは、たとえばこういうことだ。


「人は死ぬ」


こういういうことには意味があるようで、実は何もない。


「地球は必ず滅ぶ」


どれも本当のことだ。多分、嘘ではないだろう。「人類は絶滅する」だって、真実である。


「年寄りと若い者の考えは違う」


なんだか書いているうちに面白くなってきたので次々書いてしまったが、こういうことを目にしたり耳にした人間の反応というのは、ムキになって反論するか、ハッとして頷くか、無視をするか、「ああそうですね」と受け流すかの四つしかない。


理想とか、普段の悩みとか、まあ、いろいろあるので、実は自分でもその辺の意見統一はなかなかできないというのが実際のところだけど。


「人は一人で死んでいく」


本当のことは常に憂鬱だ。「人はメシを食わなければ生きていけない」「人は結局誰かを好きになる」「楽しいことばかりではないが、辛いことばかりでもない」「不幸ではない」


こういう言葉のすべてから、自分は逃れたいと思う。たまにどうしようもなく逃げ出したくなる。真実ではないと言ってやりたい。そのためなら「辛いことばかりの人生」を歩んだって構わない。そこに、何かのラインを超えた自由があるように感じるからだ。


ま、そんなことはとりあえず置いておこう。「物語」という言葉は最近(ここ何年も続いている、ちょっと長い)流行だ。シャンプーに「植物物語」と名前がついて、違和感がないという流れにあるのだ。これは自由な発想や、陳腐な「夢」という言葉によく置きかえられたりする。文化研究家が「物語の不在」などともっともらしい言葉をずいぶん前に使っていたが、まあ、「物語」という言葉には何か、本当に胸踊る冒険を感じさせる何かがあると私は(私も、か?)思うし、ノンフィクションであれ、物語は「本当のこと」を超えた面白いものであって欲しいと思う。退屈な日常を忘れ、生きていてよかったと思うものであって欲しいと思う。


そして、最近になって気がついたのだが、演劇ではフィクションが不可能なのである。ノンフィクションしか出来ないのだ。私は芝居、特に戯曲のことを考えて、フィクションの表現として、演劇はトコトン向いていないと思った。


私が芝居をやろうと思ったきっかけは、辻仁成の「ピアニシモ」を読んだからだが、嘘を(フィクションを)人に伝えるのに、演劇はいくつかハンデを背負っている。ピアニシモは本当の話だから全然問題ないが、ジュラシックパークは演劇に出来ない。演劇やってる人間がジュラシックパークという発想をするかというと疑問だけど。


って実は、そう思って「本当のこと」を演劇にしようとしたんだけど、結局、演出や脚色がそこに入ってきて、小説と大して変わらないものになってしまったのだった。



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