# 携帯電話・結婚詐欺やその他の詐欺・恋してるとか好きだとか
* 1999年1月1日
## 携帯電話
携帯電話を買おうと思うのである。携帯電話は、使う方より呼ぶ方にメリットがありそうだが、日々、いい加減な行動をしていると、呼ばれるメリットを意識しないといけないような気がしてきた。
ところでファッションの話である。
僕はあまり服装にはこだわらず、結果として親に着せられた服の系統からほとんど外れてないのだが(少しは自分の好みで変わったと思うけど)、どうも服装というのは、その人の属している世界とか、付き合っている人間だとかの種類が分かってしまうのではないかと、いまさらながらに気がついた。
一つのファッションが、ある世界でしか通じないのは本当は当たり前なんだけど、自分は今までそれに気がつかなかった。これは別に民族衣装とかじゃなくて、もっと系統の話である。つまり、読んでいる雑誌なんかの話なのだ。もちろん民族的な服装もその上にあるのだけど、もっと、道を歩いている隣の人々に焦点を当ててみたい。
こんなことを考えるようになったきっかけは、やっぱりとか、またか、お前もかと言われるだろうけど、世の中のやり過ぎの女子高生を見てからである。それも普通にいる高校生ではなくて、髪を汚く染めている、やたらと黒い集団のことである。
これは一つのきっかけだろうと思う。今までも、ファッションとか、服やその周りの小物を含めたいろいろなことを知らなくてはいけないとは思っていたのである。いつも勉強しようとは思っていたのに、なんだか集中力が続かなくて途中で諦めてしまっていたのだ。
どうして服について勉強しなくてはならないと思っていたかというと、一つは小説のためである。
僕は登場人物がどんな服を着ているかについてはほとんど興味がなく、だから描写もせずに書いてきたわけだけど、たまに登場人物の服装を記述しなくてはいけないシーンが出てくる。そういうときにその服の形状を説明する言葉を、僕はほとんど知らないのである。
もちろん、誰かの小説を読んでいて、さっぱり分からない描写に遭って困惑することもある。それは分からない描写をした作者が悪いわけで、一般性のある服の名前からはみ出した表現は、読者を考えて選ばなくてはならないと思う。
「タンクトップ」
オッケーだ。もちろん、「ジーンズ」や「Tシャツ」、「アロハシャツ」なども充分理解可能な範囲に入る。実際、私の今までの描写のレベルもこんなもんだ。
「キャミソール」
去年(1998)の流行だったと思うが、まあ、これならまだいい。これが「キャミ」になるとNGだ。
「タイトスカート」「フレア(スカート)」
この辺になると微妙だ、と思う。俺のレベルでは、フレアスカートは誰かに聞かないと分からないレベルだ。
ちょっと脱線するが、ズボンのことを「パンツ」とか「ボトム」というのは私はとりあえず避けている。そっちの方が、服のことを知らない読者も分かるだろうと思うからだ。もし女の子しか読まないようなジャンルを書くとしたら、ズボンという言葉はちょっとカッコ悪いのかもしれない。それでも、カッコ悪いと思うような人にも私の書いていることが何かは分かるし、それは、知らない人に「パンツ」と書いて誤解されるよりいいと思う。
ジーンズの形状になるともう駄目だ。機能などもお手上げである。
「ブーツカット」「ロールアップ」「ヒップハング」
まあ、僕は趣味でソーイングもやるので、必要なことは徐々に覚えてきてはいるが、「なんとなく分かる」レベルを超えるものではない。
さて、着ている服というのはその人が属する世界を意外と表現している。まったく何も考えずに安い服だけ来ている奴らがいる。ジーンズとTシャツ。冬にはもう少し個性が出るが、セーターとかトレーナーしか着ない人だ。無頓着派と言っていい。
さて、私も無頓着派で、人の服にも無頓着だったけど、人の服を見始めると結構面白い。もちろん、着ている服のセンスを褒めてもらいたいような、褒めてもらうために服を探し、それを着ているような人の期待を満足させるようなことはできないが(つまりあまり微妙なニュアンスは分からないが)、友達同士というのは自然と着ている服が似てくるし、似た服の人間と仲良くなりがちである。
僕の好きな女の子の服装の一つに、あるパターンがあるのだが、現在、これを説明するだけの言葉を持っていない。ショートカットで理知的な感じのするファッション、とかあいまいな言い方しかできない。大抵、そういう女の子が一緒に歩いているのは、やはりクールなイメージのする、ちょっと前の永瀬正敏が雑誌で着ていたような服を着た男である。
……我ながら未だ服装の表現力が乏しいことを実感させられる。全然伝わっていないのは分かるのに、伝えるだけの技術がない。自己嫌悪に陥るが、自分の課題が見えているだけましかもしれない。
まあ、それで、金髪の黒い高校生が着ている服も、一つのグループに分けられそうだ。もちろん、分類不可能なものだけど、どこかであえて線を引くならどこが境界になるか(あるいは境界として私が勝手に線を引くのだけれど)、という話である。
そして私も携帯電話を買ってしまった。「携帯を持っている人」側の人間になってしまったわけだ。
## 結婚詐欺やその他の詐欺
結婚詐欺をする結婚詐欺師は、それほどいい男ではないというのが普通らしい。
「普通に見えるからといって騙されないように」。
まあ、いい男が寄ってきたら警戒する方が自然のような気がする。女の結婚詐欺はないと思うが、男を騙して金を取る女は、逆に、自信家の男を狙うそうだ。自信家の方が騙しやすい。
結婚詐欺師は(結婚詐欺師はすべて男だと思う)逆に自信のない女を見つけて、相手に自信を与えることを技術にするらしい。容姿も普通で、「いい男」ではないのが基本だそうだ。「優しさ」で騙すのが基本のようだ。まあ、ハンサムで優しかったら結婚詐欺師としてかなり優秀なような気がするけど、そういう完璧な奴がいたら逆に怪しい。怪しまれたら負けだ。
美人で性格もよくて彼氏もいないで自分に惚れる女がいた、としたら、多分、俺はなんだか半信半疑になると思うし、女の人でもそうなるのではないかと思う。もしかしたら、恋愛に関しては女の人の方が夢見がちなのかもしれない。この辺はよく分からないし、どちらかというと、そういう夢見がちな女を標的に、結婚詐欺師は目を光らせているのかもしれない。
結婚詐欺師にとってやはり獲物の選定が一番重要だと思う。そしてここまで読んで分かったかもしれないけど、獲物として狙われるのは、ちょっとコンプレックスがあって、夢見がちで、真面目な、一番結婚詐欺に遭って欲しくないような女の子なのである。
結婚詐欺師としてはそういう女を騙すのだから、非情にならなくてはいけないと思う。これが、男遊びの激しくて、やたらと自信があって、現実家の女だったらどうぞ騙してくれ、金を騙し取ってくれと思うのだが、そういう女は結婚詐欺には遭わない。
けど、これは一つの日常における隙間であると思う。どこに行っても風俗店があるように、治安がよくてもヤクザが消えないように、人がいる限り詐欺師は消えないのである。平和ボケよりちょっとスケールの小さいものに、善意ボケがあると思う。世の中の悪意に鈍感になってしまうのだ。詐欺師がいる限り、人は簡単に人を信じてはいけないし、詐欺師がいなくなることはないのだから、いつでも人を簡単に信じてはいけないのだ。
夢見がちで、真面目で、劣等感があるのはいい。そして、そんな、「まったく悪いことをしていない女」を騙そうとする存在があることを忘れてはいけない。真面目に生きていると敵が減るから、そういう敵の存在を忘れるのである。
けど、だから私は結婚詐欺師や、もっと全体的な、人の善意を食い物にする詐欺師という存在が結構好きだ。混沌とした世界は秩序立った世界より正常なような気がする。真面目な人間が騙されない世界というのはなんだか「もろい」世界のような気がする。もちろん度を越した混沌は人間の精神を蝕むのだろうけど、それでもなんだか好きだ。生命感がある。
## 恋してるとか好きだとか
「いつからだろう。
恋人がいるのが普通で、いないと異常と見なされるようになったのは。
いつからだろう。
恋人がいない人は、それだけで焦らなくてはいけないようになったのは。」
ホントは全然違う文章だけど、鴻上尚史の「デジャ・ヴ」という演劇のパンフレットに載っているご挨拶である。
もう「デジャ・ヴ」発表から10年以上が経過してしまったけど、鴻上尚史のこの文章はある点を考えさせる(いや、原文はこれとは全然違うと思うけどね)。
それはつまり恋人のいない精神状態についてである。おそらく、恋人がいない、結婚していない、といったことが特別視される年齢期に、恋人がいなかったり結婚してなかったりする人というのは、今も昔も周囲の目が厳しかったのだろうと思う。都会にいて、親戚関係の緩い生活を送っていると忘れがちになるが、田舎だと未だに「そろそろ結婚しろ」だの「結婚はまだか」だの「子供はまだか」だのと言われるらしい。私の両親の実家というのが山形なんだけど、そこではやっぱりそういうことに口出しをしていたし、それが結構一般的なようだった。
けど、この「そろそろ結婚しろ」だって、子供の頃の「ちゃんと勉強しろ」と同じく抽象的な概念のような気がする。
ちょっと冷静になれば、結婚したり勉強したからといってだからどうということもないし、本当は子供が結婚したり勉強しているからといって安心してはいけないのだ(田舎では、「そろそろ親を安心させてくれ」という台詞も本当に口に出す人がいるらしい。ドラマの見過ぎだと思う)。子供にしみれば、ひどく無責任な台詞だと思うのである。親は、結婚相手の見つけ方や、いい結婚といったことを知らない。
清水ちなみの「大結婚。」のあとがきだが、母親の「結婚しろ」攻撃に耐えかねた清水ちなみが、母にに「ただ結婚しろって言うだけじゃなくて、お母さんは経験者なんだから、どういう相手と結婚するといいわよとか、結婚はこういうところがすばらしいわよとか、そういうのないわけ?」と聞くところがある。相手が黙ったので、「で、何で結婚しないといけないっての?」とさらに聞いたら相手はお母さんはこう答えた。「だって、子供は早いうちに生んどいた方が絶対いいわよ」。
このやりとりはもう少し続くのだが、それは「大結婚。」で見て欲しい。結局、親の「結婚しろ」にたいした根拠はないのである。
ちょっと話がずれるが、多分私はこの、結婚しろとプレッシャーをかける両親、というのはもう10年したら姿を消すのではないかと思う。なぜなら、その頃にはそういう台詞にうんざりした人間が親になっているはずだからだ。淘汰されると思う。
話を戻そう。私は自己紹介のところでも書いたけど、別に恋人募集中というわけでもない。いい人がいたら、多分、私も恋をすると思うが(我ながらなんちゅう言い草)、寂しくてとにかく誰でもいいから彼女が欲しい、というのは全然ない。というのは嘘で、もちろん寂しいときもあるし、自分でも自分が寂しがり屋だと思う。彼女ができたら結構、べったりしちゃうような気がする。よく分からんけどね。
けど、やっぱりこういうのは個人的な話だし、また、自分一人だけでどう思っていてもどうにもならない類の話だ。
問題は、彼女がいないときに焦ってしまうということである。周りが、彼女がいないことを異常だと見なすからだろうか。あるいはみんな彼女がいて、自分にだけいないからであろうか。
鴻上尚史はそれを一つの時代の風潮のように言った。欧米だと、大抵、公式の場に一人でやってくるのはいい年こくと気まずいらしい。カップルが基本なのだ。
話がズレるけど、そんな風潮から何とかしないと離婚は減らないと思うぞ。減らそうという気もないのかもしれないけど。
「恋をするのは人類の義務だろうか?」
恋の概念もいろいろあるだろうが、私はそれよりはもっと綺麗で素敵なものだと思う。そして、そういう素敵なものに、「恋」という名前を付けることに抵抗を感じる。
「分かんなくてもいいと思ってた
恋愛小説とか大嫌いだしバカバカしいとか思ってた
…でも…今はなんか解りたい気分
自分でももてあましちゃうよーなこの感情の正体…
自分なりに答え出したいんだ…」
冬目景の「イエスタデイをうたって」の台詞である。
恋に関する他人の声はいつも遠くに聞こえる。自分なりの答えがあるだろうと思う。
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