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どうでもいい話・ロードオブザヴァンパイア・スモーキンビリー

# どうでもいい話・ロードオブザヴァンパイア・スモーキンビリー


* 1999年1月1日


## どうでもいい話


まったくどうでもいい話だけど、大抵の会話はどうでもいいのである。話題というのは個人差が激しいので、興味のない人にとって、ある話題がどうでもいいというのは、本当に当たり前の話である。


こんなことを考えているうちに何も口にできなくなって精神に異常をきたした人間もいる。


人に話しかけるとき、人は無意識に話題を選ぶ。時によっては意識的に選ぶ。無意識に選ぶのはその人と親しいからであろう。


「俺、最近、車、買ったんだ」


どうでもいい。だが、興味のある人にとってはどんな車か気になる。


「次の選挙、誰に投票する?」


ずらずら例を並べても仕方ないので、ズバッといくが、では、「人の興味を引く」話というのはなんだろう? 話題そのものに人の気を引く要素がないとして、話術にその秘密があるのだろうか?


ある種の話題は、無難だ。政治やスポーツの話題は公共の場ではよく交わされる。私はスポーツにはまったく興味がないが(そのシーズンに、どの野球チームが調子いいかという話が何か重要なのだろうか? どのチームが優勝しようとまったくどうでもいいと思うのだが)、ま、政治の話などは、とりあえず聞く、くらいの興味を持って聞くくらいはできる。


ややこしい話をすると、「人との会話でどのような話題を選んだらよいか」なども、どうでもいい話だ。


私は大学に行って、そこを卒業できたので、学歴としてはまあ、それなりである。大学院が勉強する所だとはどうしても思えなかったし。だから、それなりに抽象的な話も面白いと思う。哲学とか、宗教の話も好きだ。だが、そういう話がまったく駄目な人もいる。


「ワイルド・スワン」という本にあったが、大学での知識階級に、毛沢東が、「農民に学ぼう」といって農村に出す場面がある。農村に学びに行くのだが(それにしても毛沢東の考えていることは、なんとなく分かるけど、体育会系というか、軍人系というか、人の向き不向きを無視したものだよなぁ)、その農民の話題が、政治の話題さえなくて、些細な話を一日中、話されて嫌気が差した、とあった。


百姓に悪い、と著者は断っているが、学びに行って、農民から学んだのは、百姓は馬鹿だ、ということだという。


今の若い百姓は違うだろうが、やっぱりそうなんだと思う。哲学者の言ってることなど、普通の人にはどうでもいいし、哲学者が何か言ってきたら「何言ってんだ、お前」といわれるのがオチだ。たとえそれが偉大な哲学者であっても、普通の人に通じないのならば、それはどうでもいいのだ。


アイドルファンにとって、そのスキャンダルは大変だが、ほかの人にはどうでもいい。他人の悩みなどどうでもいい。あるいは、自分のことだってどうでもいいのかもしれない。


これは結構大変なことだ。自分という人間は、実はどうでもいいのである。慌てふためかない人間がいるだろうか? もし、それが事実だとしたら、つまり、本当に自分が他人から「どうでもいい」と思われているとしたら、もはや存在の危機といっていい。死んでても生きててもどうでもいい。何を考えていても、何も考えていなくてもどうでもいい。


何か始めたくならないだろうか?


会話として、どうでもいい話というのは、結局、相手によって違う。私は(相手が話し上手なら)見た夢の話などを聞くのが好きなのだけど、こういう、純粋にどうでもいい話というのは、どうでもいい話ゆえに、なんだかわくわくする。どうでもいいレベルは高い方がいい。突然、アマゾンのサルの話などを始められたら、私など感激でドキドキするくらいである。


## ロードオブザヴァンパイア


ネットニュースでいろいろやり取りをしているときに思ったのだが、「不滅」というものは本来、「ゼロ」とか「普通」と同じく、抽象的観念的なものだと思う。


1,2,3と数を数えるうちに、考え方としてなくてはならなかった「ゼロ」という考え。世の中のいろいろな人のいろいろなありようを見て、考えなくてはならなかった「普通」。どちらも、この地上に存在しない。


同じように、変化する世の中と現象を見て、その反対のものとして「不滅」という考え方もなくてはならなかったのだろう。変化するものを見て「不滅」という考え方を知る。変わった人を見て「普通」というものを考える。どちらもよくあることだ。


「普通」って何?とはよくある疑問で、まあ、そんなこととは別に「普通」という言葉は結構使うのである。それは、けど、「普通」というものはないと認識した上で使わないと、言葉が浅いものになってしまう。


「不滅」の話だ。


「不滅」も、ないことを自覚した上で、日常に便利だからよく使う。これをムキになって、「巨人軍は本当に永久に不滅だ」と思ったり、「自分はまったく普通の人間だ」と思ったりすると、えらいことになる。


自分が(長谷川一成が)自分を普通だと思っていないので、こういうずれが生じるのかもしれないけど、この手の感覚、「言葉に対する考え方のずれ」には戸惑う。特に、心の底から思い込んでいる人間と関係を持つと、まずお互いの言葉の認識から確認しないといけないから大変だ。


自分が普通ではないと言ったが、それでも普通って何?とはよく考えるし、結論としてはいつも、人間としての思想の柔軟性、いつでも自分の考えを訂正できるだけの判断力みたいな点に落ち着く。


これは大事だ。特に、「音楽は永久に不滅だ」などと言っている人間と話をするときには、これだけを唯一の武器に、私は人と向かい合う。なぜなら、私にとって不滅などというものは存在しないし、しかし、「音楽は永久に不滅だ」といったときの「不滅」が、それと同じ意味で使われてはいないということは、誰の目にも明らかだからだ。


私にだって分かる。


そういう意見に、「いや、音楽は不滅ではないと思う」と言って、さらに相手に「音楽は不滅ではない」ことを納得させる作業には何の意味もない。だが、お互いの「不滅」という言葉について話し合うことには大いに意味がある。


「そうはいっても」実際に、気の合う人、というのは、そういう相互理解のステップを踏まずに、一つの言葉を同じ意味として考えている人だろう。その重なりが広ければ広いほど、「気の合い方」は深くなる。もっとも、そうやって安心していると、重なっていない一つの言葉が出てきたときに、歩み寄りもなく衝突してしまうのかもしれないけど。


そうすると、「気の合う人間」などというのは本当はいない、といった悲観的な結論に達する。それも、「気の合う人間」の言葉を定義すれば、そして、小さい頃の友達関係を思えば、否定できるのだ。気の合う人間はいる。不滅は確かにこの世に存在し、愛や思いやり、そして、「普通」や「ゼロ」だって、言葉と認識の上で、確かに存在するのである。それを信じられないのは、自分が否定したからではなく、誰かに否定されたからだろう。


## スモーキンビリー


たまに気の向いたときに同じことを書いているけど、「飲み会」って、人が集まって、ほかにすることはないのかと思う。


「酒以外の楽しみをもて」じゃなくて、ただ、みんなが集まって「じゃあ今日は飲もうか」という発想しかないというのがつまらないわけで、できれば、みんなが集まったときに何をするかということに、もう少し選択肢が欲しいと思う。初対面の、たくさんの人達とあの、「飲むしかない状況」で、酒を飲めない人は何をしているのだろうか? 気になる。親しくない人々が溶け込んでいくのに、「飲み会」以外の方法はないのだろうか?


モデルの仕事が気になる。「モデルの私生活」なんて特集がたまにあったりするが、モデルの私生活なんて、みんなの私生活と変わりがあるはずないのだ。モデルの私生活の小説を書けと言われたら、私は簡単に書くことができる。当たり前だ。私生活から仕事の部分を外したら、そこには生活しかないのだから。


けど、私はモデルの仕事をよく知らないし、知りたいと思う。まあ、モデルに限らず、人の仕事がどういうものかというのは結構知りたい。好奇心がある。まあ、人の私生活だって、聞けば意外とその人独特の部分があって面白かったりするのだけど、まあ、それは置いといて。


で、何でとりあえずモデルの仕事なんだというと、男性モデルというのもいるにはいるけど、基本的に女の仕事で、バイトで経験するというわけにもいかないからである。まったく勝手な推測なので、「全然違う!」といわれるかもしれない。雑誌のモデルというのは多分、日雇いの肉体労働に似ている気がする。CMでもグラビアでも広告のモデルでも大して変わらない気がする。どうしてかというと、撮影なんて普通一日で終わるし、多分、たまには「一週間の現場」なんてのもあるだろう。


雑誌のグラビアなんかを想像すると、週刊誌なら毎週撮影があって、編集者がその月のグラビアに誰を載せていくか話し合って、後は事務所に連絡を取って、撮影所(っていうのか? スタジオ? 分からん)に連絡とって、カメラマンやスタッフも集めて(どういうグラビアにするか話し合いもあるんだろうな)、で撮影するんだろう。


ちょっとそれよりも、誰を載せるかより、誰でもいいからモデルを三人、という時の方が、モデルの仕事として面白そうだ。肉体労働がどっかの会社に所属するように、モデルもどっかに所属しているのだろう。俺はそういうことに疎いのだけど、モデルって毎日仕事してるもんなのだろうか? そんなに需要のある仕事なのか? モデルって。実は俺が知らないだけで、毎日どこかでファッションショーはあり、それどころか人手不足モデル不足だったりするのだろうか? ちょっと分からない。


ま、それでショーの仕事とかあると、まず、事務所同士で仕事の取り合いになって、個性とか予算とかそういうのが話し合われて、どっかが受注すると、事務所がモデルに仕事を割り当てるのだろうか? 肉体労働なら、毎日働いてる奴には優先的に仕事を回してもらえるから、多分、生活のかかったモデルから仕事がまわされるんではないかと思う。しかし、モデルってかなり個人差、つまり誰にその仕事をさせるか、について、肉体労働のように、病弱でなければ誰でもそこそこ使える、あいつは明るいし現場が明るくなるからあいつがいいな、みたいな判断が、もっとシビアになされるのではないかと思う。それとも、事務所に採用された時点で、もう、どのモデルに仕事させても同じみたいな感じになるのだろうか?


よく分からん。


モデルの私生活にも、飲み会があって、新しい現場のモデル同士で飲んだりするのだろうか? 現場作業だって一緒に飲みに行くのに、かなり親しくならないとないのに(打ち上げは別)、女同士で酒を飲んで、まあ、それはそれで、酒が好きなら楽しいのかもしれない。けど、多分、モデルの飲み会も打ち上げだけだろうな。一回最後に一緒に飲んで、それで終わり。そんなもんのような気がする。



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