1999年1月1日
あ
最近気になるのが、言葉の前につける「あ」である。
店に注文するとき、「何になさいますか?」「あ、ハンバーガーセット」の「あ」である。一体この「あ」は何なんだ。
「コーヒー、お代わりいかがですか?」「あ、お願いします」。このとき、「あ」を抜くと、当たり前だが「お願いします」になる。「あ、一つ下さい」も「一つ下さい」だ。「あ、すいません」も「すいません」になる。
えーっと、またなんか切り口を間違えた気がするが、私はとにかく、自分で口にする「あ」が気になって仕方ないのである。「一呼吸置いてから用件を言っている」ようでひどく情けなくはないだろうか?
「俺はダイレクトに言ってるもーん」という偉大な人は放っといて、というか多分いないと思うけど、この「あ」には、どこか言い訳めいたものがある。「あ(今、気づきました)、すいません」というような、どうも、自分の心情や状況を相手にそれとなく示して、気遣いを強要しているような気がするのはちょっと私の考え過ぎだろうか?
大体、万引きに捕まったとしたら、多分「あ」の大安売りである。<br>「君、ポケットの中のものを見して」<br>「あ、はい」<br>「これはなんだ?」<br>「あ、すいません」<br>「ちょっと奥の部屋に来てもらおうか」<br>「あ、すいません」<br>「どうしてこんなことしたんだ?」<br>「あ、すいません」<br>「学生証は?」<br>「あ、はい」<br>「ふーん」<br>「あ、あの」<br>「なんだ?」<br>「あ、警察には、知らせないでもらえますか?」<br>しまいには初犯だろうと前途があろうと突き出したくなるはずである。
急な質問には答えられないが、それが予期したものであっても、質問によっては「予期してはいけないような質問」だったりする。そうするとやっぱり「あ」が入る。少なくとも私の場合、「あ」が入っているのは、結局、予期しているけど即答するのはどうかというような場面だ。
「何になさいますか?」「ダブルバーガー」
なんだか気合いが感じられないだろうか? 「ダブルバーガー!」と叫んでいるようにも感じる。注文を聞かれるのは分かっているし、それに対する答えも用意している。気持ちとしては「何になさ……」「ダブルバーガー」とか、いきなり「ダブルバーガー、持ちかえり、セットにはしない」などと言ってもよさそうである。しかし、それはそれで問題があるだろう。正確には、問題ないけど、そういう法的、刑事的な問題ではなく、感覚の問題である。
「結婚しよう」「あ、駄目駄目」
こんなこという女もどうかと思うが、これが、
「結婚しよう」「駄目駄目」
ではなんだか、まあ、言われた男の背中をポンとでも叩いてやりたくなるではないか。
「あ」は返答に使われるだけではない。財布を見て、「あ、細かいのがない」だって、聞いていると(そして自分で言っていても)その「あ」は言う必要があるのか?と思ってしまう。いかにもわざとらしい。財布の中を見れば、「あ」などと言わなくても「細かいのがない」ことぐらい分かるではないか。相手に伝えるのは「千円で」だけでいいのである。しかし人は言う。「じゃあ千円で」
なんだ? 「じゃあ」って?
ラヴアンドピース再び
私のようにとくに彼女もなく、そういう「口説く」ということに積極的になれない男というのは(もちろん臆病なだけだが)性犯罪に走りやすい気がする。実際、生活していて、不意にそういう衝動に目覚めるということもまったくないわけではなく、そういうときに理性で抑え込むのだけど、多少余裕のあるうちにナンパにでも繰り出した方が精神衛生上、正しい。
私が思うに、ナンパという行為は結構歴史が深いと思う。女子高生の売春が、援助交際と名前を変える前から存在していたように、日本人だって昔から知らない男が知らない女に声をかけていたはずである。
話は変わるがアメリカのあの、知らない人と仲良くなるノリというのは一体なんだろうと思うのである。私は、犯罪が増える前の昔のアメリカは陽気だったらしいけど、今はさすがに慎重になっただろうと思っていたが、意外とそういうこともないようだ。
しかし、そういうアメリカの方が性犯罪ではトップだ。ナンパしてれば性犯罪をする必要がないんじゃないですか?と思うが、どうも、どこにでも女性に対して自意識過剰になる男は存在して、そういう男にとってまだ日本の方が暮らしやすいらしい。あくまで雰囲気だけで話すから、実態を知っている人は訂正して欲しいけど、アメリカの方が二次元のエロゲーなんかをしている男に対して偏見や差別が厳しいのではないかと思う。
さて、性衝動を理性で抑えると言ったけど、その手段として私の場合、小説があるわけだけど、小説の好みとして性描写よりホラーを好む。これは結局、生きているという実感を、「生に触れたときに得る」か「死に触れたときに得る」か、どっちであるかによると思う。話はかなり飛んでしまったけど、セックスしているときに、「生きててよかった」と思うか、九死に一生を得たときに「生きててよかった」と思うか、という、そういう話をしたかったのである。
もちろん、人間なんだから、どちらでも実感するのが正統であろうと思う。片方だけでしかその「生の実感」を得られないとしたら、セックスの最中に相手の首を締めるようなプレイに陥りがちだ。相手が首を締めてきたら用心した方がいいだろう。
しかし、結構そういう衝動はセックスしてても現れるらしく、じゃあ相手の女に「首を締めて」と言われて、「いや、それはできない」と答えるのもなんだか気が引ける。それで女に「臆病者!」などとののしられたら、いきり立ったちんぽの持って行き場がなくなるだろう。一人だけの問題でないだけに、事態は複雑だ。それで気持ちが引いてしまうとしたら、その男にはそういう要素がないということで、無理して首を締めてやる必要はないと思うが。第一、一生、セックスのたびに「首を締めて」と言い続けていく方が不可能だろう。
「死」を知って「生」を知るというのも因果な話だ。セックスに生命賛歌があるかというと、まあ、人次第であると思う。私はあると思うが、年がら年中感動するのはちょっと無理だし……しかし、「セックスに飽きた」というのは人間としてどうかと思う。飽きるだけしてみたいものだが、そういえば、「おんなじ女と三回もやれば飽きる」と誰かが言ってたが、さすがにそりゃ極端だろう。女の方が飽きるというのももちろんよく聞くから、やろうとして「飽きた」と言われるのは結構残酷だが、覚悟くらいはしておいてもいいだろう。
それより悲劇が、「自分がセックスに飽きていることに気がつきながら、仕方なく繰り返している」という状況だろう。「生きることに飽きたけど、仕方なく生きている」とか。まあ、そういう状況になったら、セックスを止めて自殺すればいい話だと思う。しかし、生きることに飽きて自殺して、死ぬことにまで飽きてしまったら、生きかえればいいのだろうか?
それは無理だと思う。どうしてかというと、一度飽きてしまったんだから。生きることに飽きた人間が自殺して、死ぬことにも飽きた奴が生きかえってきたとしたら、一体この世の中はどういう風に見えるのだろう?
間違いなく言えることは、「生きてるって素晴らしい」などとは言い出さないということだ。
ちょっと話を戻すけど、「セックスに飽きた」人間が何をするか分からない。とりあえずセックスを止めて、まあ、とりあえずスポーツをしたとしよう。そのうちスポーツにも飽きる。それで再び、セックスをするだろうか? もはやその人間にとって何もかもが暇潰しになってしまっているような気がする。
だとすると、生きかえった人間は既に目に映るすべてが退屈で、食事も風呂も睡眠もセックスも暇つぶしの退屈な作業になってしまうのだろうか? ああ、やだやだ。そういう事態にだけは陥りたくないものだ。死ぬことにも飽きたら、死ぬことは止めて、しかし、生きるでも死ぬでもない別の道を探し出したいものだ。
平和に飽きたから戦争するようなしょうもない歴史は作らないで欲しいものだ。
暴力の話
世の中には理屈だけじゃない部分があって、行動が常に必要である。そして行動のうちの一つは「暴力」と言われたりもする。
犯罪者の理屈は大抵、狡猾ではなくて間抜けだからなんだか不思議だ。よくある話が、無職の息子が親にたかっていて、ある日、親父の退職金に手を出してしまった。親はさすがに遺産相続からその息子を外したそうだけど、そうしたらその息子は父親を殺してしまった、というものだ。
なんだろう、この理屈は。もちろん物事は複雑なので、入りこめば入りこむほど色々な事情や、土地柄や、たまたま近所にいた人の性格がどのようなものであったかまで遠い原因として上げられるわけだけど、そういうのを無視すると(それこそワイドショーのような下司の勘繰りまで無視すると)、「父親を殺してどうするつもりだったの?」と聞いてみたくなる。殺すと、遺産相続できたわけでもあるまいに。
この手の理屈は例えばオウム真理教なんかにも当てはまる。理解しようと努めるものもちろん大事だし、どちらかというと自分もどうでもいいことを「なぜ」と考える方だけど、例えばそれを無視してみる。すると面白い。「地下鉄にサリンをまいてどうするつもりだったの?」となる。
もちろんこの二つとも「殺すつもりだった」ぐらい先しか答えられないだろう。宗教家というのはある種、考えるのをやめた人だと思うのだが(できれば入信した後でも、「神は本当にいるのか」という問いを発し続けて欲しいと思う。そういう人が入信はしないと思うけど)、それでも、「どうするつもりだったのか」と思う。
「理にかなった暴力」というのはあるだろうか?
えらく難しい話になった。「理にかなった暴力」とは「仕方なく振るう暴力」と大体、同義だと思う。とかくこの世は時間がなく、人はいつか死んでしまうので、議論によって結論を出すことが現実的には難しいのだ。それに、議論はよく、衆愚的な妥協に落ち込んでいく。
例えば殺人犯がいる。理想はこれに対処できない。なぜなら、理想的にいえば、人は人を殺さないものだからだ。しかし、そこに殺人鬼がいる。次の理想としては、放っておく。何も言わなくても悔い改めて自首してくるだろうというのが理想だ。しかし、そこに逃亡犯がいる。自首もしてこない。次の理想としては、やはり何もしない。犯人を誰かが見つけるか、被害者が自分で自分の身を守るからだ。
一体、他力本願はどのレベルまで落とせるのだろうか? 今のところ、私は警官任せだし、多分、多くの人がそのくらいには他力本願なのではないだろうか? なんだか書いてみると理想主義というのは他人を信じて、他人に頼ることで成り立っているのかと疑う。しかし、もっと考えてみると、理想というのはそのような「負の言葉」「負のイメージ」「負の行為」ではないはずだ。なぜなら、僕は理想主義者が好きだし、彼らの口にする世界こそ、実現すれば素晴らしいと思う。現実主義者が嫌悪するだけの存在ではないはずだ。
現実主義者、結果主義者が重んじるのは、行動であり暴力であるような気がする。理想を求めて行動するというのは一見正しいように思えて、しかし、その理想が正しいという保証のないこの世では、ひどく自信の揺らぐ行為だ。
だけど、やっぱり暴力というのは一つ、心惹かれるものであるのも確かだ。破壊のイメージは決して100%、嫌悪感のみで構成されたりしない。誰だってゴジラが暴れればスカッとするはずである。決して破壊は男性の専売特許ではない(なんだか段々力が入ってきたな。大丈夫か、俺)。
例によって収集がつかなくなったのでこの辺で。
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